「まやかしの戦争」で手にした祖国イスラエル
モラル地獄へ転落していくイスラエル国家
「神に選ばれし者」は悪魔に選ばれた人々だった。シオニストは、ホロコーストと1948年の「独立戦争」を策略として用いることで彼らを支配した。
[1] ホロコーストが起きたために、ユダヤ人に「民族的郷土」(ナショナル・ホーム) が必要になったのではない。
イスラエル建国のために、ユダヤ人はホロコーストの犠牲になったのである。 イルミナテイがイスラエルを新世界秩序の中心にすえようと望んだ。
ロスチャイルドが建てたイスラエル最高裁判所の、露骨なフリーメイソンの象徴記号がそれを暗示している。 そして、イスラエルはイスラム世界を侵略するための砦でもある。
[2]1948年の「独立戦争」では、ユダヤ人が教えられている事実とは異なり、イスラエル人は血に飢えたアラブ軍による第二のホロコーストには直面しなかった。
実際には、この戦争はシオニストによるパレスチナ人の残虐な民族浄化だった。 この「ナクバ(大破局)」は、ナチスのユダヤ人に対する行為を思い起こさせる。
まずは二つ日の嘘から取り上げよう。
「まやかしの戦争」で手にした祖国
イスラエルの歴史学者イラン・パペによれば、1948年は、あらかじめ計画された通り、ほとんど無防備な100万のパレスチナ人を、代々受け継いできた家、果樹園、畑、商売から追放
するための口実であり隠れ蓑だった(『パレスチナの民族浄化(The Ethnic Cleansing of Palestine)』2006年)。
シオニスト指導者は、近隣のアラブ諸国が脅威にはならないことを知っていた。 パレスチナ人はユダヤ人が教えられているように自発的に出て行ったのではない。追い出されたのだ。
イギリスと国連も共犯である。バルフォア宣言でパレスチナ人の権利を擁護すると約束したにもかかわらず、イギリスは7万5000人の兵を派遣しておきながら
大虐殺と略奪を許した。
国連は、100万ものパレスチナ人が住んでいる領土を60万のユダヤ人に譲り渡し、パレスチナ人を、「少なくとも8割がユダヤ人の国家だけが存続可能な安定した国家だといえる」と公言するダヴイド・ペン・グリオンのなすがままにさせた。
国連が指定したユダヤ人国家の耕作地の89%は、パレスチナ人の所有地だった(『パレスチナの民族浄化』)。
ヨルダンのアラブ軍団のイギリス人隊長ジョン・バゴツト・グラブ将軍は1948年を「まやかしの戦争」と呼ぶ。
ほとんどの戦争と同じように、結果が前もって決められていたためだ。
アラブ軍を率いていたヨルダンのアブドラ国王は、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムを得る代わりに名ばかりの抵抗しかしないと、シオニストと極秘の取引を結んでいた。
さらに、イギリスがアラブ軍を指揮して物資を削減した。
「寄せ集めの守備軍」からははど遠く、イスラエルは五万の兵を持ち、うち半数はイギリス軍で兵役に服した経験があった。またイスラエルは小規模な空軍、海軍、戦車、装甲車、重砲も保有していた。
その彼らと対戦していたのが本物の「寄せ集めの守備軍」で、おそらく一万人はどの、訓練も装備も不十分なパレスチナ人の準軍事的な一団とアラブ世界からの志願兵だった。
アラブ諸国の雄弁さとは裏腹に、ユダヤ人を海へと追い出せる公算はまったくなかった。パレスチナ人は無抵抗だった。
彼らはたいした危険ではないと高を括っていたのだ。これまでオスマン帝国やイギリスの支配下で生き延びてきたのだから、ユダヤ人政権下でも何とかなるだろう。
多くの村ではユダヤ人と「不可侵条約」を結んだ。
1948年3月、ベン・グリオンはユダヤ機関執行部にこう語った。「パレスチナの民衆の大多数は、分割を既成事実として受け入れている。〔彼らは〕戦いたくないのだ」
イギリス軍指揮下のアラブ軍団だけが事実上の敵軍となりそうだった。シオニストが協定を破棄してエルサレム旧市街を攻撃したとき、彼らを撃退するためにこの軍団が活用された。
ほかのアラブ諸国が非常に弱かったので、シオニストは南レバノンを占領してアラブ人を追い出した。
1948年五月二四日、ダヴイド・ベン・グリオンが日記に密かに記した内容は、困難な状況に追い込まれた人々の指導者とはとても思えない。
「我々はレバノンにキリスト教国家を建設する。南側の国境はリタニ川となるだろう。我々はトランスヨルダンに侵入、アンマンに爆弾を投下して軍隊を壊滅させる。
それでシリアは落ちる。エジプトが抵抗しっづけるようなら、ポートサイド、アレクサンドリア、そしてカイロを爆撃することになるだろう」(『パレスチナの民族浄化』)
そう、たしかにパレスチナ人はいくつかの輸送船団を攻撃し、少なからぬユダヤ人の命を犠牲にしてユダヤ人入植地を孤立させた。
こうした攻撃が、自分たちの攻撃に対する抵抗をすべて「反ユダヤ主義」と呼ぶシオニストの思うつぼにはまったのだ。
ナクバ=大破局をもたらしたパレスチナ民族浄化計画
アラブ語に堪能なイラン・パペは、パレスチナ難民キャンプで生存者を取材した。彼はパレスチナ難民の話をイスラエル国防軍の公式記録と照合した。
正規のアラブ兵がパレスチナに足を踏み入れる前に、200を超えるアラブの村々がすでに破壊されていた。この民族浄化計画は「D計画」と呼ばれた。
パレスチナ人居住区と所有地すべての詳しい調査記録が準備されていた(不用心なパレスチナ人が、この不気味な「国勢調査」の調査員を親切にもてなすこともしばしばだった)。
シオニストは夜間にパレスチナ人の村を攻撃して、住民が眠っている家々をダイナマイトで爆破した。
それから、10歳から50歳までの男性を駆り集めて射殺、あるいは捕虜収容所へ送った。
女、子供、老人は立ち退かされた。最終的には75万人がガザ、ヨルダン川西岸地区、あるいは周辺諸国の難民キャンプに追いやられた。婦女暴行や略奪が横行した。
エルサレム、ヤッファ、ハイファといった大都市では、パレスチナ人居住区が集中砲撃を浴びて、人々は恐怖におののき、殺された。
全体として、1000あったパレスチナの村のうち530が物理的に破壊された。さらに十数の市や町が明け渡された。
なかには、ユダヤ人との経済的あるいは個人的なつながりを築いてこの運命を逃れた村もある。だがシオニストはこうした「示談」の多くに従わなかった。
デイル・ヤッシン村の虐殺は悲惨なものだったが、1948年10月28日に、ベールシエバとヘブロンのあいだにあるダワイメー村で繰り広げられた虐殺はそれ以上だった。
パペの言葉を引用する。
「翌日、危険を冒して村へ入ったハッサン・マーモウド・イーデイブ村長は、モスクのなかに積み上げられた死体を恐怖のまなざしで見つめた。
通りにもまた多くの死者が散らばつていた。男、女、子供。彼の父親の姿もあった。(中略)455人が行方不明だった。うち170人は女性と子供たちである。
この虐殺に加担したユダヤ人兵士もぞつとするような光景だったと報告している。 頭を割られた赤ん坊。強姦され、あるいは生きたまま家ごと焼かれた女たち。刺し殺された男たち。
これらは事件から数日以内に〔イスラエル軍の〕最高司令部に送られた目撃者の証言である」(『パレスチナの民族浄化』)

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