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みんな大好きイルミナティ

イルミナティ、フリーメイソン、都市伝説、政治、社会情勢、闇権力陰謀暴露!New World Order暴露!

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ご冗談でしょう、イルミナティ傀儡さん 




イルミナティ傀儡としてのチャーチル

1940年9月7日、ナチスによる初のロンドン空爆によって三〇六人の民間人の命が奪われた後、ウィンストン・チャーチルはこう言った
「彼ら〔ロンドン市民〕は私を励ましてくれた。彼らの家を〔故意に〕爆撃して粉々にさせる代わりに、勝利を与えてくれと」

 チャーチルは真実を語っている。彼はロンドン市民の知らないところで、民間人を空爆目標から外すというヒトラーの申し出を断った。それどころか、彼はベルリンなどの民間地域を先制攻撃することによって、ヒトラーをロンドン爆撃に駆り立てた。

 チャーチルは空軍中将に「敵を徹底的に痛めつけろ」と命じ、内閣には「軍事目的をさらに拡大解釈して爆撃することが、我々の目下の最善策だ」と指示した。
彼は赤十字による民間人死傷者の視察も阻んだ。
1940年9月未には、700人の子供を含む7000人のロンドン市民の死体がさらされた。終戦までに、6万人以上の英国市民と65万人以上のドイツ市民が「戦略」爆撃によって命を奪われた。

1940年、チャーチルは英国空軍の基地から攻撃をそらさなければならない一方で、虐殺も始める必要があった。ほとんど戦闘のないまま開戦一年が過ぎており、それは「いんちき戦争」と呼ばれていた。
ヒトラーは大半の英国人が受け入れを望むような寛大な和平案を提示していた。 もし英国が和平に応じていたら、ユダヤ人ホロコーストはなかっただろう。

 チャーチルは第二次世界大戦を「歴史上もっとも無用な戦争」と表現した。
しかし、彼は自分の株の損失を補填し、愛するチャートウエルの屋敷を差し押さえから救ったシティーの銀行家たちに報いた。
躁鬱病患者だった彼は戦争を生きがいとし、一般市民を少しもかえりみなかった。




 チャーチルが「Ⅴ」サインをして見せたとき、人々はそれを勝利への意欲だと思った。しかし、それは彼の真の忠誠を示していた。「Ⅴ」サインは逆さの十字架、つまり「壊れた」十字架を意味するオカルトのサインなのである。

 これは私たちが教わる甘ったるい歴史とは違う。私たちが「歴史」と呼ぶものは、ほとんどが宣伝、つまり、隠蔽工作にすぎない。

 こうした事実は、第二次世界大戦を率直に描写したデヴィッド・アーヴィングの『チャーチルの戦争(Churchill's War)』(1987年)に基づいている。

 それは最近のロンドンでの爆破事件にどのような光明を投じるだろうか。 第二世界大戦は人類をイルミナティ(ロンドンを拠点とする独占資本)による世界独裁に隷属させるための
長期計画の大きな一歩だった。

チャーチルが激怒したドイツ独自の経済システム構築

 ウィンストン・チャーチルについての重要な事実として、彼の母方の祖父レナード・ジェローム(旧姓ジェーコブソン、1828~1891)は、ロスチャイルド家の米国の主要な代理人オーガスト・ベルモント(旧姓ショーンベルク、1813~1891)の投資家であり、ビジネス・パートナーだった。

 ジェニー・ジェロームとマールバラ公爵の次男ランドルフ・チャーチルとの結婚は、政略結婚の一つだったようで、それはユダヤ人投資家の娘と金遣いの荒い英国貴族との結びつきに典型的なものだった。
マールバラの反対は、今日の約500万ドルに相当する5万ポンドの持参金によって克服されたようだ。
にもかかわらず、彼らは1874年4月の結婚式に出席せず、公爵夫人はその七カ月後に生まれた幼いウィンストンを「成り上がり者」と呼んだ。

 伝記作家たちはチャーチルをあまり「英国人」らしく描写せず、ユダヤ人のイメージを用いる傾向がある。 
チャーチルが「早産」だつたことで、ウィリアム・マンチェスターは「彼は自分の順番を待つことができなかった」と言っている(『最後の獅子(The Last Lion)』)。

 ベアトリス・ウェッグは晩餐会で彼の隣に座ったときのことをこう記しているー「第一印象として、落ち着きがなく、ほとんど耐え難いほどに自分勝手で、傲慢で、浅はかで、反動的で、それでもどこか人を惹きつける魅力があった。 (中略)英国貴族というよりも米国の投機家という感じで、自分と自分の選挙運動のことばかり話した」(ジョン・ピアソン『ウィンストン・チャーチルの私生活(The Private Lives of Winston Churchill)』)

 チャーチルの「追いつめられたような」性格は、両親が彼に無関心で、成功することによって愛情を勝ち取るように教えたという事実に起因している。
彼は二四歳で著述家として成功し、三三歳で閣僚となった。 彼の出世は、母親が有力銀行家のアーネスト・カッセルなど、ロスチャイルド家とのコネを持っていたことに助けられた
(若きチャーチルは、その政治生命を梅毒によって打ち切られた父親に復讐もしたかった)。




 1930年代、チャーチルの銀行家の友人たちは彼を、英国シェルの会長でシオニストのロバート・ウェーリー・コーエンの率いる圧力団体「フォーカス・グループ」の指導者にした。チャーチルは「宥和政策」の主要な反対者となり、結果としてヒトラーとの和平の障壁となった。

 1936年、首相のスタンリー・ボールドウィンはチャーチル率いる代表団に対して、「もしヨーロッパでなすべき戦いがあるとすれば、私はそれをボルシェヴィキとナチスにやってもらい
たい」と言った。 しかし、この政策はイルミナティの考えと合致しなかった。

「赤い交響曲」文書によれば、イルミナティはスターリンを操り、戦争を始めるためにヒトラーを生み出した。しかし、ヒトラーは独自の紙幣を発行することによって銀行家たちを遠ざけたようだ。 これは「革命」(つまり、イルミナティの世界支配)にとって重大な脅威だった。
「第二次世界大戦前にドイツが犯した許しがたい罪は、世界の取引システムから自国の経済を解放し、世界の金融にその利益を得る機会を与えないような独自の為替メカニズムをつくり出そうとしたことだ」とチャーチルは言った(ロバート・ブースビーに対するチャーチルの言葉)。




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2013/03/07 Thu. 17:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

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